こんにちは。
所用で一時帰国していたまなおです。
この時期の日本はいいですね。
朝夕は肌寒いながら、昼間は清々しい陽気に包まれて、ふらりと散歩へ出かけたくなるような気候です。
秋の味覚も盛りだくさんで、ダイエット中の身には嬉しいような恨めしいような誘惑をガンガン仕掛けてまいります。
もちろん、簡単にのっちゃうんですけどね。
さて。
先日、そんな小春日和の中を西教寺というお寺へ参拝に行ってきました。
比叡山の麓から琵琶湖を望む、明智光秀公ゆかりのお寺です。
明智光秀と言えば、来年2020年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公ですね。
かつては、裏切り者とか恩知らずの三日天下など、マイナスなイメージが先行していた明智光秀ですが、最近では、交渉力や築城の才能、愛妻家とか家臣想いの一面など、その聡明で優しい人となりにもスポットが当てられるようになっています。
そんな、明智光秀一族の菩提寺「西教寺」へ初参拝です。
西教寺
駐車場に車を停めて、総門へと向かいます。
しっかり大河ドラマの幟が立っていますね。
この総門は、明智光秀の居城であった坂本城の城門を移築したそうです。
参道
総門から続くなだらかな坂道の両脇には塔頭が点在し、モミジが参道を覆っていました。
モミジはまだ青葉でしたが、あと3週間もすれば、見事な紅葉のトンネルになると思います。
西教寺は、聖徳太子による開基という伝承もあるようですが、その後しばらく荒廃していました。室町時代に中興の祖である真盛上人が入寺し、天台真盛宗を興したことにより栄えました。
現在、天台真盛宗の総本山となっています。
大師殿から勅使門
その真盛上人をお祀りした宗祖大師殿の手前から見た景色がなかなか良かったです。
大師殿の唐門に彫られた三羽雀。天台真盛宗の御紋です。
唐門の屋根は檜皮葺で入母屋造になっており、前後に張り出した唐破風は立派で趣きがありました。
参道の正面は勅使門なので普段は使われていません。
一般参拝者は、このまま右側に進むか、左側の石段を上がって本堂へと向かいます。
本堂・不断念仏
水屋で清めてから本堂の前に立つと、中からキーン、キーンと響く音が聞こえてきます。
これは、念仏を唱えている鉦(かね)の音でした。
堂内は撮影禁止のため写真はありませんが、僧侶の方が念仏を唱えながら絶え間なく鉦を叩いておられました。
真盛上人の教えに従った不断念仏は、今日まで続いているんですね。
護猿
比叡山の僧兵に攻め入られた時には、猿が代わりに鉦を叩いて念仏を唱えたという伝説(身代わりの手白猿)も残っているそうで、西教寺には、護猿(まもりざる)として猿の瓦や置物があちこちに見られます。
明智光秀と西教寺
境内には明智光秀一族の墓がありました。
織田信長から坂本の領地を与えられた明智光秀は、先の比叡山焼き討ちへの懺悔の念から、西教寺の再建に尽力し、犠牲になった人々を供養したと言われています。
光秀の心優しい一面
また、家臣想いのエピソードとして、堅田城を攻めた際に命を落とした家臣18人のために、身分を問わず全員同じ量の米を西教寺に寄進して供養したことが挙げられます。
愛妻家、明智光秀
明智光秀は、側室を持たず正室の煕子(ひろこ)を生涯愛したと言われています。
煕子が病に倒れ亡くなった際、当時は妻が先立った場合、夫は葬儀に出ないというのが習わしでしたが、光秀はそれを無視して葬儀に参列しています。
月さびよ 明智が妻の 咄(はなし)せむ
という松尾芭蕉の句碑もありました。これは、光秀がまだ無名で貧しかったころ、連歌会のために妻の煕子が黒髪を売って酒宴の体裁を整えたというエピソードを背景に詠われた句です。
その他見どころ
伏見城から移築されたという客殿や、展示室なども見応えがあります。
撮影禁止のため紹介しきれませんが、機会があれば是非訪れてみてください。
こちらは、小堀遠州作と言われている庭園で、池は琵琶湖を模しているそうです。
穴太衆庭園の蹲に浮かべられた菊が秋の情緒を高めていました。
おわりに
今回、母と一緒に散策しながら西教寺をゆっくり拝観しました。
その間、母がよく話すんです。
もともとおしゃべりな人ではないんですが、50年連れ添った父が他界して以来、普段ほとんど話す相手がいないまま過ごしている反動なんでしょうね。
週に3回はLINEで音声会話してはいるものの、やはりこうして対面するのとしないのとでは違うようです。
なので、今回短い滞在ではありますが、時間が許す限りお付き合いすることにしました。
おかげで、秋晴れの午後、明智光秀ゆかりの寺でゆったりとした深い時間を過ごせました。
ではまた。